気持ちの文章的表現(論理を添えて)

薄い勧誘の断り方・諭し方。

 

いやね、最近知り合った人と二人で会ってみたんだ。

そしたら、宗教的な勧誘を受けたんだ。

 

・すべてを知ることが出来る!

・相手の深い部分を見ることが出来る!

・人見知り?それを治すことも出来るよ!

 

さて、自分はなんと言ったか。

自分的にかっこよかったから記しとくw

 

①人見知りについて

障がいの診断について。

障がいは「本人が生きづらいと感じるか」が診断の基準のひとつである。

残念ながら自分は人見知りであるとは思うが、それで不便とは思わない。

不便と思ってないってことは、治したいとも改善したいとも思わない。

そんな自分でいいです。

 

②ハヤパンマンのことも深いところを見てみたい

深い部分を見るってことは、相手の裸を見ることに似てると思う。

セックスでもお風呂でも、相手の裸を見るのは相手が裸を見せてもいいなーって思ったときだけでしょ?

もし、俺があなたに「裸になって」って言って不快に感じるならば、俺はあなたの裸を見ることは無いでしょう。

つまり、俺が深い部分を見せようと思ってない限り、俺の深い部分を見るのは失礼です。

 

③感じたこと。

もしそういう技術があるなら、正しいことに使ってね。

じゃないと悪になるよ。

 

 

 

要約するとこんな感じ。

あー、楽しかった。

どーでもいいけど

自分って危険だなって思った。
危険。
そう、危険だなって。

2つ。

世の中には違いはあれど、間違いはないと思ってる。
人道的なものに反しない限り。

逆に言うと手段を選ばない。

そして、素直すぎる。
大切な人が傷つけられてたら、助けてしまう。
でも、自分自身、自分自身の気持ちに弱いから、その人のことをどれだけ大切と思っているか分からない。

結果どうなるかわかる?

大切な人の為には手段を選ばない。

一見すれば優しいかもね。
でも、あまりに危険すぎる。

魔法使いになりたかった…。

タイトル?

ま、言いたかっただけだ笑

 

30代になって一番効いた言葉は「もう20代じゃないんだね」的なこと。

30になったね!はなんともないけどな、もう戻れない的な表現は効くもんだ。

 

で。

事前に誕生日誕生日ゆーてたけども。

誕生日だからってどってことはないよなーっと。

 

誕生日ってどんな日かってゆーたら、本人は何も偉くもなく特別でもなく。

自分であれば30年前に母がお腹を痛めてこの世に生を受け、今まで生きてこれたことは出会えた全てのおかげで。

それを振り返るには良い日と思うんよねー。

神社でも行ってお参りしとけばよかったか。

来年はそうしよう。

 

20代長かったなー。

10代はそんなこと考えなかったけど、20代は長いね。

学生から社会人になり、人と出会い…。

一番動きが多く、今後の人生の基盤となる時期なんだろなー。

 

さて、自分はどんな30代が待ってるかねぇー。

やめるんだーバイキンマン!

胸くそ悪いことがあったなー。

人の気持ちを踏みにじる様な。

自分は同じことをしないように気を付けよう。

 

「やめるんだーバイキンマン!」ってあるよね。

ハヤパンマンの名前の元になったあの作品。

有名な話?で「悪いのはバイキンマンの人格ではなく、バイキンマンの行為」だと。

罪を憎んで人を憎まずと。

 

うまくいかないとき、落ち込んでしまう。

人間だから当たり前かと。

それは自分自身が否定された気がして落ち込んでるけど、気にすべきは自分がした行動の何かが適切じゃなかった場合がある、ということ。

 

また、うまくいったときは舞い上がってしまう。

これも人間だから当たり前かと。

しかし、自分の行為が良かっただけで、それが自分の人格自体を評価されている訳ではない、ということ。

 

変に落ち込まず。

変に舞い上がらず。

自分を自制することは難しいだろうけど、こうやって理解しておけば少しは落ち着けるんじゃないだろうかね。

優しい世界

ども、ハヤパンマンです。

 

今回のタイトル「優しい世界」。

これを入力する際に、素で「やらしい世界」って手が動いていたのはご愛嬌w

 

前まですごく大変だった。

今はあまりそう感じないってことは、周りの環境にも恵まれているのだと思う。

 

その中で自分が感じた法則?というか原則というか。

そういうものを書き記しておこうかと。

生きることを円滑にするためのミソそいうか、そんな感じ。

 

二つあって、まず一つは、

『言いづらいことは先に言う』

 

これって、当たり前かもしれないけども、たぶん円滑にするために必要なこと。

言いづらいことってのは、自分の非だったり、相手の不都合だったり、そういうこと。

もし世の中の「理解」って言葉に感情的理解と論理的理解があるとすれば、自分は論理的理解しか(ほぼ)出来ないと思っている。

感情的理解も全てロジックで理解する。

だから、感情的な作用はよく分からないんだけども、誠実さだったりそういったものがうまいこと働くんじゃないだろうかね。

 

自分的に、

・言ったら「いや、いいよ。気にしないで」って言われるだろう

・実際言ったら「いや、いいよ。気にしないで」って言われた

・でも言わなかったら、めちゃくちゃ怒られる

って面白いと思う。

 

 

二つ目。

『自分のやりやすさより、相手のやりやすさ』

 

人それぞれに特徴があって、それは意識と行動で変更できると思うけど。

でも、根底にある性質のようなものは変えようが無く、それを変えようとするとストレスがかかると思ってるんよね。

で、適地適作?餅は餅屋?

いろいろな言葉にあるように、それぞれの性質を生かすことが一番世の中がうまくいくような気がしてて。

 

例えば、人が二人いて。

それぞれが自分のやりやすいようにと考え行動していると、お互いに衝突を生むかも知れない。

でも、同じように人が二人いて。

それぞれが相手がやりやすいようにって意識して行動してたらどうだろうか?

衝突は生まれないかも知れない。

もしくは、それぞれの性質が生かされて、いい効果を生むかも知れない。

自分の経験、様々な人と仕事をすることで、そんなことを考えるようになってきた次第です。

 

逆に自分がストレス感じてるってのは、自分にベクトルが向いてる証拠かも。

自分の考え・行動が自分本位でなかったか?

相手のことを考えられていたか?

そう考えるのも重要かもしれない。

『命、支援、募金』

いろいろと思うわけです。

 

今日久しぶりに髪を切りにいった。

ここ最近は「髪型をいつもと違うものに」を目標に、髪を伸ばしてみたり、ジェル使ったり、ワックス使ったり・・・。

でも、さすがに長くなりすぎたので、切りに行った次第です。

 

で、たまたま仕事先の近くに床屋があったから寄りました。

まぁ、なんというかそろそろ50年目に入るらしいところで、老舗という感じ。

今までで一番丁寧な散髪・顔そり・マッサージを受け、今後はココに通おうと思うぐらいファンになるという素敵なお店でした。

 

店主がこれまた面白い人で。

初めて行った床屋さんですよ?

大体最初の話題ってあるじゃない?

天気とか、仕事とか、ニュースとか、経済とか?

なのに、第一声「孫がウクライナにあるバレエ学校へ行っててですねぇ。暖かいものを送れって言うんですよ」って。

ぽかーーーん。

 

話を聞いていると。

小学校からバレエをしていた孫娘が、8月からウクライナのバレエ学校に行ったと。

ウクライナは北海道ぐらいの緯度にあり、今の時期はすごく寒い。

でも、国自体がそんなに豊かじゃないのか室内の設備が整っておらず、毎晩毎晩寒い思いをしているらしい。

毎日バレエの稽古をしており時間が無く、かつ、どこで何を売っているか分からず送ってくれとお願いしたそうな。

本人もすごく活躍しており、頑張っているって話を聞いて、「それは送ってあげたくなりますよねぇ」とか話しながら・・・。

 

最近仕事しててさ、「命」とか「支援、募金」とか考えるんよ。

ウクライナの話を聞いて、日本は恵まれてるなぁっと。

 

まず「人の命は平等に尊い」と定義する。

まぁ、あながち間違っては無いだろうし、倫理観にも則しているだろう。

「ぽっ」と新しい命が誕生した。

それは、日本?ウクライナ?アフリカ?

 

日本に生まれた自分は、衣食住に苦労せず生活が出来てる。

もちろん同じ日本に生まれた人同士でも貧富の差はあるが、死ぬなんて事はない。

 

もし、アフリカの地域に生まれたら、衣食住に苦労せず生活が出来ていただろうか?

貧富の差なんて言う暇もなく、生まれて間もなく命が危険にさらされるのではないだろうか?

 

生まれながらに生まれる差。

自分ではどうしようもない違い。

それを埋めるために、自分の出来る範囲で支援をする。

それが優しさだったり思いやりだったり。

そういうものじゃないのかなぁ。

 

何もかも贅沢だなぁーって。

自分に無理の無い範囲でいいから、支援とか募金ってしてあげたほうがいいなーって。

そう思う人が一人でも多く増えてくれればいいなーって。

 

そんな気持ちが少しずつでいいから広がってくれればいいなぁー。

最近良く、「サイコパス」って言われるんだが。

最近良く、「サイコパス」と言われます。

 

 

 

言われてどうなのか?

 

むしろ自分は一時期「サイコパスになりたい」と思っていたことがあった。

 

じゃあ、言われて嬉しいのかっていうと、それは複雑な気持ち。

 

なぜかというと、「サイコパス」についての正しい理解がされていないからである。

 

 

 

じゃ、サイコパスってなんなのか。

 

とりあえず、wikiでも参照してみましょうか。

 

精神病質 - Wikipedia

精神病質(せいしんびょうしつ、psychopathyサイコパシー)とは、反社会的人格の一種を意味する心理学用語であり、主に異常心理学生物学的精神医学などの分野で使われている。その精神病質者をサイコパスpsychopath)と呼ぶ。

定義[編集]

特徴[編集]

犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは以下のように定義している。

オックスフォード大学の心理学専門家ケヴィン・ダットンによると、サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義、である[1]。現状では、チェックリストのみが診断基準であるので医学的にサイコパスと同じ状態であっても反社会性がなければサイコパスとはならない。反社会性などの診断基準を満たす者は幼少期からの素行問題など行動面の異常を示すことが多い[2]

 

 

 

この中で重要なのは「反社会性があるか?」って事が定義で取り上げられていることだと思うのよね。

 

基本的に自分は他の人に迷惑や不快感を与えないように努めているつもりで、少なくとも反社会的な言動をしているわけでもない。

 

アスペルガーの特徴でもある感情を表に出しづらい特徴を捉えて「サイコパス」といわれているのだろう。

 

 

 

 

んじゃ、自分はなぜ一時期サイコパスになりたいと思っていたのか。

 

以前読んだマーケティングの本にこうあった。

 

要約すると「サイコパス的な人とは、私情や感情に左右されず目的達成のために行動する人」と。

 

これを広義のサイコパスと定義し、一般的なサイコパスはそれに反社会的な行動が伴う人と。

 

 

 

感情に流されちゃんとした選択が出来ていないのではないか?と昔考えていた「自分は(反社会性の伴わない広義の意味での)サイコパスになりたい」と思っていたと。

 

そんなことを思っていたが、今はそう言われるようになっている。

 

 

 

ま。

 

いいのか、悪いのか。

 

それは、・・・どうだろねぇ。